犬を食べてしまって心が痛む
せっかく韓国に来ているので、日本では食べる機会がない犬を食べに行くことにした。
犬を食材として見なしたことはないし、美味しそうだとも思わないけど、どんな味がするのか興味があった。
若いころに何でもやってことなかったことの反省として、最近では機会があればなるべくトライすることにしている。
犬料理は韓国では国際的な体裁を気にして非合法となっているけど、街中で堂々と営業が行われていて、実質黙認状態。
非合法なので当局による衛生面の管理や指導がないのが不安だけど、まあ大丈夫っしょ。
海外のサバイバル番組で有名なベアやエドを見ていると、火を通せば大体のものは食べられると学んだ。
犬肉料理屋に着くと、伝統料理であるポシンタンを注文。
ポシンタンとは鍋で香草や野菜と一緒に犬肉を煮込んだスープ料理だ。
韓国の店はソウルだと日本語がちょっとできる店員が多いので、韓国語が分からなくても何とかなることが多い。
価格は並サイズで1300円ぐらい。
いざ注文してみると早くも本当に食べることができるのか不安になってきた。
好奇心と不安が交差する中、料理を待つことに。
お味は?
少しすると、さっそく料理がテーブルに運ばれ、頂くことに。
恐る恐る人生初の犬肉を箸で口に運ぶ。
味はどうだろうか?
率直に言うと、まずくはないけど美味しくもない。
豚肉を淡泊にした感じだけど、豚肉のほうが美味しい。
ただ、もし豚肉と言われて出されたら分からないかもしれない。
正直、何口か食べた時点でもういらなくなってしまった。
最初は食べられると思っていたけど、どうしても気持ち悪い感じがする。
肉を噛んでいると犬のビジョンが頭の中をよぎり、食欲を減退させる。
微妙な臭みがまた嫌で、鼻で息をしないようにして咀嚼した。
まずくはないし、そこまで臭くもないんだけどこの抵抗感は何なんだろう。
今まで食べ物と見なしてことのない生き物を食べるのはこんなに嫌なのか。
しかもよく見たら頼んでないのに、勝手に店員が大盛にしやがったせいでやたらと量が多い。
文句を言いたかったが、揉めるのがめんどくさいので諦めた。
あー、残してしまいたい。
ふと店内のスクリーンを見ると、かわいらしいチワワが洗われている映像が流れていた。
一瞬解体作業を映しているのかと思ったけど、よく見たらただのニュース番組で少し安心した。
タイミング悪すぎんだろ。
サンクコスト
僕にももったいない精神はあるし、食べ物を大量に残すことには抵抗はある。
それでもやっぱり食べたくないものは食べたくない。
こういう時、サンクコストとして考えることにしている。
世の中には払った金がもったいないという理由で、多少無理しても食べ物を残さず食べ切る人がいる。
でも、これは間違いだ。
払ったお金はどうやっても取り戻せない。(サンクコスト)
殺した生き物もどうやっても蘇らない。
考えるべきなのは料理を食べることによって自分が効用を得られるかどうかの一点だ。
料理を美味しいと思えない、お腹が満たされて食べたいと思えなくなった時点で料理の効用はなくなっている。
そこで無理して食べれば、食後の気分の悪さ、無駄なエネルギー摂取による脂肪の増加など、むしろマイナスの効用しかない。
つまり、料理をもう食べたくないと思えば、いくらそれにお金を払っていようと堂々と残すべきなのだ。
お金を払ったという変えられない事実にしがみつき、今そこからの効用を考えられないのは愚かだと思う。
僕がよくやるパチンコで例えれば、もう5万円も使ってしまったので、引くに引けないとひたすら諭吉を投入するのと同じことだ。
というわけで、結構な量を残して店を出る。
ワンちゃん、ごめんよ。
食後感が悪かったので、口直しに飲んだキウイジュースがとても美味しかった。
犬肉の価値は
美味しくない割にちょっと高い、そんな犬肉をわざわざ食べる必要性は感じないし、もう二度と食べることもないだろう。
珍味というほど変わった味でもないので、物珍しさで食べるのすら微妙だ。
日本で言えばイルカやクジラの肉がこんな感じなのかな。
そんなわけで、経験として割り切るとしても犬肉はあまりお勧めできません。
どうせなら英語以外を勉強しとけばよかったかもしれないと思うニート
高校時代、英語で10段階評価で1の成績をとった俺は英語アレルギーだった。
そのコンプレックスから大学時代に独学を頑張っていた時期があり、そのおかげで大分英語に対する苦手意識は解消された。
英語で調べ物をしたり、電話をかけたりできるようになったし、youtubeで海外の動画を見ることもできる。
暇を持て余すニートにとって英語を理解できることは、時間を潰す上で必須の教養なのかもしれない。
ただ、役に立ってることと言えばその程度。
最近観光ガイドに関心を持っていて、その仕事を考えると他の言語を勉強しといてもよかったかなと思っている。
なぜ観光ガイドなのかというと、法律が改正されて特別な資格がなくても誰でも観光案内で商売ができるようになったのがきっかけ。
一人でできるし、キャリアがなくても始められるので、長期ニートでもチャンスはあるからだ。
暇だけはあるので語学を磨くことも可能だし。
あまり稼げないと言われているけど、一つでも多くの収入源を確保したい自分としては、年に50万でも100万でも稼げるならそれでいい。
でも、観光で稼ぐことを考えたら英語以外の言語のほうが有利。
日本に来る英語圏の人は意外と少ないし、それなのに話せる人はたくさんいる。
需要がそこまでないのに対し、供給が多すぎる面がある。
来日外国人で一番多いのは中国人と韓国人だけど、国内には日本語を話す中韓人がめちゃくちゃたくさんいるので、これも供給が多い。
供給が少ない言語となると、ロシア語、アラビア語などの馴染みが薄い難関言語なんだろう。
そういう意味では一番の穴場はタイ語なんじゃないかと思ってる。
2017年のデータでは来日するタイ人の数はアメリカに次いで6位。
でもタイ語を話せる人なんてあまりいない。
英語を話す人には今までたくさん会ってきたけど、タイ語が話せるは一人も見たことがない。
タイ語は文字も音も日本人には全く馴染みがないし、日本人が憧れを持つような言語でもない。
習得している人が少ない分、できればかなり需要がありそう。
でも、今からタイ語なんかやり始めたら間違いなく数年はかかるだろうし、微妙なモチベーションでそんなに勉強が続くわけないのは分かりきっている。
語学の勉強は継続こそ命だけど、それが一番難しい。
道半ばの英語をもっと磨いて、少しでもお金を稼げるようにするか、新しい言語を0からやるか。
ま、人生オワコンニートなのでどの道を取って失敗しようとも駄目でもともとだけど。
普通に考えたら新しい言語の習得はないかな。
自分のことは一番自分が分かっている。
ちょっと金が稼げるかも程度のモチベーションで、さほど興味がない語学勉強に数年単位の努力を捧げられないことは確信している。
大人しく英語をブラッシュアップしてそれで少しでも小銭を稼げれば良しとしよう。
英語が金にならなくても、いろんな英語コンテンツを楽しめるようになると考えればお釣りは来るでしょう。
ということで、英語に触れる時間をもっと増やすとします。
作品を見ても感動できない、無感動症候群の原因と対策
今更ながら最近「君の名は」と「永遠の0」を初めて見た。
この2作はちょっと前に大ヒットして相当話題になっていたけど、流行に疎いので
見るのが大分遅れた。
見た感想としては、2つともそんなに面白くない。
前評判が高かっただけに期待外れでした。
君の名は30点、永遠の0は50点と言ったところ。
正直2時間以上見るのが少し苦痛で、後半は早く終わらないかなーと思ってしまう有様。
別にこの2作品に限らず、最近映画、ドラマ、漫画で心を動かされる機会が明らかに昔より減っている。
これは一体何故なのかとふと考えてみた。
感性の劣化
一番に思いつく理由はやはり年を取ったことによって感性が劣化していること。
小学生の時はちょっとしたことでも楽しめる心を持っていた。
関西から関東に引っ越すだけで期待で胸が高まったし、ファミコンのしょうもない安物ソフトでもプレイする前はワクワクした。
それが今は海外に行ってもワクワクすることはないし、物凄い美麗なグラフィックを誇るゲームのPVを見ても積極的にやりたいと思えない。
心が死にかけているのかもしれない。
ただ、今の自分でも面白いと思えるようなコンテンツはあるので、感性の劣化だけが原因ではないと思う。
集中力が続かない
昔から集中力に問題があり、学校での授業中は常にぼけっとして先生の話をほとんど聞いていない生徒だった。
就活の面接でも自分が質問して社長が答えてくれているのに、ふと夕飯のことを考えてしまって話を聞きそびれ、その後の反応に困ったことがある。
映画を見ている時も他のことを考えてしまい、重要な場面を心ここにあらずの状態で視聴してしまうこともしばしばあります。
ネットサーフィンで悪化?
僕はネットサーフィンをよくするけど、これが集中力の低下に拍車をかけている気がする。
インターネットではコンテンツが無尽蔵に無料で見られるため、一つ一つのコンテンツを見るときにそこまで真剣になれない。
いろんな人のブログを読みますが、大体流し読みで翌日にはほとんど内容について覚えてない。
何か調べものをするときも類似のサイトがたくさんあるため、ちょっと難しかったりするとすぐに他のサイトに移動してしまう。
youtubeで動画を見るときもすぐに面白いと思えなければ、あっというまに他の動画に切り替える。
情報が無料で膨大になった結果それに対して有難みを感じなくなった。
結果的に自分から積極的にコンテンツに面白さを見出すという姿勢が欠如し、ただただ分かりやすいもの、あまり考えなくていいものばかりを求める癖がついた。
だからちょっと話がややこしくなるとすぐに放棄したくなり、集中力が持たない。
映画を楽しむコツ
なんだかんだ言っても映画を見るときに最も大事なのはどれだけその世界観に入り込めるかだ。
人物に共感し、心情を推理し、ハラハラ展開を見守ることでどっぷりと映画の世界に浸かることができるし、それでこそ面白みを感じる。
俺にもそういう風に映画を楽しめる時はある。
そういう場合は相性のせいなのかこちらから能動的に見なくても、自然と世界観に引き寄せられている。
でも、やっぱり能動的に見て面白さを見出さないと楽しめないコンテンツっていうのも多い。
何回か見て面白さが分かるスルメ映画もある。
この文章を書いていくうちに、やっぱり自分には面白さを発見しようとする努力が足りなかったという考えに至ることができた。
今後映画を見るときはもう少し能動的な視聴を心がけたい。
パチンコ生活をすることの恐ろしさ、新たな生業を見つける必要性
何だかんだで4年以上もニートをしている。
前にも書いたが今の所働こうという発想が全く湧いてこない。
パチンコと自分
そうは言っても親元で生活していない以上は自分で糧を得なければならないのは他人と同じ。
そこで僕は金稼ぎの一つの手段としてパチンコに頼っている。
両親がパチンコ好きで小さい頃から慣れ親しんでいた僕は、吸い寄せられるように親に釣れられて高校生からパチンコを始めた。
最初はボロ負けしていたが、しばらくして勝ち方を覚えた。
朝から行き、夜の10時ぐらいまでずっと台に座ってデジタルを見つめる作業。
やることは簡単で回る台を見つけてあとはタコ粘りするだけ。
大したスキルも必要ない。
これは結構自分の性に合っていて、パチンコは12時間打っていてもそこまで辛さはない。
無機質な生活
それでも最近は嫌になってくることがある。
作業的には楽でも恐ろしく空虚に時間が流れている感覚がする。
日々の生活に何の物語もなく、ただ画面を見つめる日々。
他者と関わらないので語れる物語も薄い。
店のこと、客のこと、大勝や大負けしたこと、そんな程度だ。
パチンコをしてる間の記憶はあまりない。
やってることはスマホゲームでガチャを引いている子供と同じだから、とても密度の少ない時間を過ごしてることになる。
仮にパチンコで生活することがこの先もずっと可能だったとしても、それを続けていくことを考えると気が重くなる。
今後年を重ねていって、人生の多くをパチンコ屋で過ごす、それはもったいない気がする。
朝、店に並んでいると年老いたパチニートを見かけるが、それが自分の末路だと思うと否定しくなる。
それでも雇われて働くことの嫌悪感が勝り、就職するという選択肢は今の自分には全く無い。
早急にパチンコ以外にも自営業的に生活の糧を得る手段を見つけたい。
自分でできる生業を探す
俺はパチンコ以外にもあと一つだけ収入源がある。
大した収入ではないけど、無能でもできて辛いことはほとんどないのでそれにも結構依存している。
そういう収入のチャンネルを増やすことが大事だ。
自分のアンテナを広げるために同じように社会から外れてしまって、自分なりに糧を得て生きている人と情報を交換していきたいと考えている。
ちなみに、収入があるならニートじゃないと突っ込む人もいるかもしれないが、そこはご安心を。
俺は本来の厳密な定義に基づく正真正銘のニートだ。
ニートでも協力する大切さ
僕はパチンコをする時は誰とも話さず、常に単独で行動している。
でも、仲間同士で行動したり、知り合い同士で情報を共有してる人も多くいる。
コミュ力に長けていればいろんな人と情報を共有したほうが得なのだけど、それはできていない。
ただ、もう一つの収入源のほうではある程度他の人と協力関係を築けている。
こちらも自分の経験から得た情報を積極的に提供するようにしているので、自然とそれが返ってくる。
たまにオフ会もやるし、皆同じくスネに傷を抱えている状態ゆえのシンパシーもあってそこそこ仲良くやっている。
完全な孤独に陥っていないというのは、ニート生活におけるメンタル面では大きい。
社会から外れてしまった弱者だからこそ、他者と協力することが重要になってくる。
人生オワコンだろうがなんだろうが、死ぬことができないなら生きていくしかない。
少しでもましな生活になるように協力できることは協力していこう。
瞑想で学んだ、他人の話を聞いても問題が解決しない理由
以前、瞑想合宿を体験した記事を書いたけど、そこで学んだことがある。
それは、心の奥深くに根ざした問題は頭による理解では解決できず、自分の感覚での理解を通じてのみ解決できるということ。
これは、瞑想の実践を通じて無常の片鱗を感覚で味わい、知識だけあることの無意味さを体験したから学べたことだ。
日常生活でもこれは当てはまる。
ある悩みがあったとして、本、ブログ、セミナーなどでいくら人の話を聞いてもいつまでも同じ悩みを持ってぐるぐるすることになる。
人の話を聞いていると一時は励まされたり、解決したかのような錯覚を覚えるかもしれない。
でもそれは本当に表面上のことであって、根本の部分は何も変わっていないのでまた悩み始める。
そういう経験は多くの人がしているはず。
心に理屈は通じない
人間誰でも生きている以上悩みはある。
悩みと言っても単に知識で片付くものは大した問題じゃない。
例えばワードプレスのやり方とか、料理の作り方とか、そういうものは人の話が大いに参考になる。
ただ、心の悩みというのはそうはいかない。
コミュ障、対人恐怖症、視線恐怖症、異性恐怖症、あがり症、こういう悩みに理屈は通じない。
コミュ障で悩む人は他人の話を聞いてどうにかなったろうか?
人はそれほど自分のことを気にしていないという話を聞いて、いくら自分に言い聞かせても効果はなかったはず。
人を恐れないほうが人生は得する、だから人を恐れないでくれと自分の心に頼んでも聞く耳を持ってくれない。
もし何か心の悩みを抱えていて、それを解決しようとするなら自分の体験を通じた感覚を身につけなければならない。
例えばコミュ障が治るとしたら、それは人や本から理屈を知ったからではなく、自分で人間関係を構築し、人と接するのは楽しい、怖くないということを感覚で理解できた時だ。
感覚の会得によるコミュ障の改善
これには自分の実体験がある。
俺は職場で上司から問題視されるぐらいのコミュ障だった。
どうしても人と打ち解けられず、話しかけるのが極端に苦手。
自分から雑談をふるなんてことはまずない。
コミュ障関連の本を読んでも何も変わらなかった。
その後、仕事を辞めてちょっとした事情で海外で集団生活をする機会があった。
そこでは嫌でも毎日たくさんの人と顔を合わせ、同じ食卓を囲んでいた。
最初は全然喋らずに浮いていたけど、一人とてもよく喋るキャラがいて、そいつのおかげで段々と打ち解けることができた。
皆でゲームをしたり、パーティーをしたり、そんなことを通じて人と触れ合うことの楽しさを感覚で会得していった。
集団生活が終わって、日本に帰国してから病院に行く機会があったのだけど、少し自分の行動にに変化を感じた。
なんと、そこで自然と看護婦に世間話を持ちかける自分がいたのだ。
普通の人からすればなんてことないけど、コミュ障からするとこれはあり得ない。
事務的な会話で終われるなら可能な限りそうしようと思うのがコミュ障だ。
だから店員、係員などと必要以上に会話をすることはまずない。
自分の中で確実に何かが変化していた。
これは体験から人と話すのは楽しい、怖くないということを感覚で理解できたからだ。
ただし、その後孤独な生活に戻り、その感覚も忘れて今では元のコミュ障になってしまっている。
感覚も放っておいたら忘れてしまうみたい。
無職の不安は無職のブログを見ても消えない
このブログを見る人は少ない。
そしてわざわざこんなブログを見に来る層も大体想像できる。
無職、引きこもりなど、いろんな事情で人生に躓いている人だろう。
自分の状態が不安で、同じような状況にいる人を見て慰めにしようとしている場合もあるはず。
もしそうなら、あまり意味がないと思う。
自分も不安で同じ無職系のブログを読み漁っていいたことがあるけど、それだけでは何の解決にもならない。
自分の不安を払拭できるのは実践を通じた感覚による理解のみ。
いくら他者の状況を聞いても気休めにしかならない。
心に根ざした問題は他者に拠り所を求めても無意味。
自分で答えを見つけるしかない。
ヴィパーサナ瞑想合宿を終えたニートの所感
久しぶりに更新。
ヴィパーサナ瞑想の合宿を終えてその体験をブログを書こうと思っていたのだけど、細かく書き出すと膨大すぎて面倒になり、放置していた。
ただ、久々にブログを見るとアクセス数が平均30ぐらいから200近くに増えていて、それを見てまたブログを書き出そうかと思い立った。
詳細な内容についてはまた別の機会に書くかもしれないけど、とりあえず簡単なまとめを書いておく。
合宿に行った動機
一番は集中力をつけたかったから。
将来の不安、過去の後悔、そんな雑念に常に振り回され、今ここに全く集中できていない自分に嫌気がさしていた。
そこで、瞑想合宿を利用して改善しようとしたのがきっかけ。
瞑想コースの目的
苦悩を生み出す渇望と嫌悪に真正面から向き合い、それを観察することによって自分の心に刻まれた汚濁を浄化していくこと。
修行の内容
11泊12日の合宿で、10日間の間は毎日約10時間の瞑想をし、その間は最終日以外は一切他社との会話を禁じられる。
電子機器、読書、音楽、メモなど気を取られるようなことも一切禁止。
正直、会話を禁じられるのはコミュ障気味の自分にとってはとてもありがたい。
いちいち余計なことに気を配らなくて済んだ。
感想
自分と向き合う濃い時間を過ごし、とてもいい体験ができたので行ってよかったと思っている。
瞑想をしている最中は様々な感情や雑念が浮かんできた。
多幸感、絶望感、過去のトラウマ・黒歴史、未来への不安、次々に表れては消えてゆく。
毎日、内面がジェットコースターのように上下にぶれ、無常を味わった。
合宿8日目、瞑想の最中に足の激痛の限界を超えて明鏡止水のような境地になり、幸福感に包まれたことがある。
何故か分からないけど不安がなくなり、どうなっても自分は大丈夫だと心から確信できた。
翌日の朝までは幸福感が続いていたが、夕方頃になると急にそれも消えてしまう。
せっかく見えた光が消え、俺は意気消沈する。
執着が苦しみを生み出すというコースの教えを体感したのだ。
ただ、そんな戸惑いもまたいつの間にか消えていた。
良きも悪きも消えていく。
この無常の体得こそが今回の瞑想の核だったと思う。
どれだけ執着しても全てはいずれ終わりを迎える。
それは誰でも頭で分かっているけど、それだけでは執着を消せない。
親しい人や昔から知っている有名人がなくなった時、誰でもいずれは全て終わってしまう儚さを感じる。
それでも相変わらずお金や物に対する執着は存在する。
物事は頭で理解しているだけでは無意味で、自己の感覚でそれを学んでこそ初めて意味が出る。
仏教では経典が理論の部分で、瞑想が実践の部分を担っている。
今回の合宿は2000年以上前に釈迦が説いた理論を実践を通して学ぶ場所だった。
ただ、正直言って合宿に期待しすぎていた感じはする。
10日程度修行するだけでそこまで劇的な変化が訪れたわけではない。
俺は執着を捨て去り、過去の後悔や未来への不安とは無縁の状態を目指していた。
それは悟りに近い状態であり、よく考えればそんな簡単に到達できる境地なわけがない。
「10日間で誰でも悟れるコース!」なんてゆとり向け受験教科書みたいなことを期待した俺が間違いだった。
大きな効果を得るためには長い時間が必要で、運営の指示によれば毎日朝晩合わせて2時間の瞑想をやりなさいとのこと。
うん、そりゃ無理かもしれない。
変化したこと
修行を終えた直後はとても清々しい気持ちに満ち溢れていた。
菜食のみの抑えた食事をしていたのに、肉を食べたい気持ちも起こらない。
修行で禁欲状態だったのに、性処理をしたい気分にもならない。
気持ちの上下のブレも少なく、安定していた。
集中力がつき、読書ができる時間も伸びた。
ただ、これは修行を終えた直後のボーナス状態みたいなもので、長くは続かなかった。
なんやかんやあって修行の継続を怠り、今となってはその効果も大分減ってしまった。
一度修行したからその効果がずっと続くなんてことはない。
地道に努力を続ける、それは俺が最も苦手とすることだけど瞑想に関してはそれをやるだけの価値はあると確信している。
何とか瞑想を習慣化させ、自分のライフワークにしていきたい。
毎回ギリギリまで準備しないで痛い目を見るのはなぜか
あと2時間ほどで瞑想合宿のため、京都に出発するのに未だに荷造りが終わっていない。
毎回思うのだけど、何故俺は本当にギリギリにならないと準備ができないのだろう。
夏休みの宿題は前日までやらず、やろうとしても間に合わなそうなので諦めてやらないまま登校するタイプだった。
自分がめんどくさいことをついつい先延ばしにしてしまうのは、普遍的な悩みだけど、自分に関しては本当に病的だ。
いつもギリギリで慌ててキモを冷やす経験を何度もしているのにも関わらず、ずっと同じ調子。
今日出かけることが分かっているのだから、せめて前日に準備をすればいいだけなのに何故できないのか。
先延ばしできると思うと、本当にどこまでも延ばしてしまう。
そのせいでチャンスを逃してきたことも多い。
いずれこの性質とは真剣に向き合う必要がある。
というか、こんな文章書いてる間に荷造りしなければいけないのでこれで終わろう。
ではでは。
~追記~
上記の文章は昨日書いて保存したものだったのだけど、案の定京都の宿に着いてからぎりぎりで準備したしっぺ返しをくらった。
まず、パソコンのアダプターを間違えて以前使っていた機種のものを持ってきてしまった。
おかげでPCを持ってきた意味がなく、無駄に1キロちょっとの荷物を増やしただけ。
更に、仮想通貨のアカウントパスワードを書いた紙を持ってきたはずが全く違う紙を持ってきてしまった。
ちなみに自分はデジタルでパスワードを保存するのはなんとなく怖くて、PCやスマホ上には保存してないのだけど、それが仇になった。
ぎりぎりで行動すると本当にろくなことがない。
今までの経験で散々分かっているんだから、いい加減学習しなければならない。
準備がめんどくさく感じるのは、部屋中にいろいろ散らかり過ぎていているから。
どこに何があるかはっきりしないので、必要なものを探すのが億劫になる。
そういえば学生のころから学校の机の中はぐちゃぐちゃで、しょっちゅう忘れ物をしていた。
今まで部屋の整理整頓は何度も試みてきたのだけど、気がついたらぐちゃぐちゃになっている。
服の中から大事な書類が見つかったり、押し入れの布団の間にはさみがあったり、本の間に札束がはさんであったり滅茶苦茶だ。
この前学生時代に使っていたドイツ語の辞書を捨てようとした時、1000円札が20枚入っているのを発見した。
こんな性格だから物を無くすのも日常茶飯事。
結局は物事の整理整頓をしましょう、という小学生並の反省に落ち着いてしまうのだった。