瞑想で学んだ、他人の話を聞いても問題が解決しない理由
以前、瞑想合宿を体験した記事を書いたけど、そこで学んだことがある。
それは、心の奥深くに根ざした問題は頭による理解では解決できず、自分の感覚での理解を通じてのみ解決できるということ。
これは、瞑想の実践を通じて無常の片鱗を感覚で味わい、知識だけあることの無意味さを体験したから学べたことだ。
日常生活でもこれは当てはまる。
ある悩みがあったとして、本、ブログ、セミナーなどでいくら人の話を聞いてもいつまでも同じ悩みを持ってぐるぐるすることになる。
人の話を聞いていると一時は励まされたり、解決したかのような錯覚を覚えるかもしれない。
でもそれは本当に表面上のことであって、根本の部分は何も変わっていないのでまた悩み始める。
そういう経験は多くの人がしているはず。
心に理屈は通じない
人間誰でも生きている以上悩みはある。
悩みと言っても単に知識で片付くものは大した問題じゃない。
例えばワードプレスのやり方とか、料理の作り方とか、そういうものは人の話が大いに参考になる。
ただ、心の悩みというのはそうはいかない。
コミュ障、対人恐怖症、視線恐怖症、異性恐怖症、あがり症、こういう悩みに理屈は通じない。
コミュ障で悩む人は他人の話を聞いてどうにかなったろうか?
人はそれほど自分のことを気にしていないという話を聞いて、いくら自分に言い聞かせても効果はなかったはず。
人を恐れないほうが人生は得する、だから人を恐れないでくれと自分の心に頼んでも聞く耳を持ってくれない。
もし何か心の悩みを抱えていて、それを解決しようとするなら自分の体験を通じた感覚を身につけなければならない。
例えばコミュ障が治るとしたら、それは人や本から理屈を知ったからではなく、自分で人間関係を構築し、人と接するのは楽しい、怖くないということを感覚で理解できた時だ。
感覚の会得によるコミュ障の改善
これには自分の実体験がある。
俺は職場で上司から問題視されるぐらいのコミュ障だった。
どうしても人と打ち解けられず、話しかけるのが極端に苦手。
自分から雑談をふるなんてことはまずない。
コミュ障関連の本を読んでも何も変わらなかった。
その後、仕事を辞めてちょっとした事情で海外で集団生活をする機会があった。
そこでは嫌でも毎日たくさんの人と顔を合わせ、同じ食卓を囲んでいた。
最初は全然喋らずに浮いていたけど、一人とてもよく喋るキャラがいて、そいつのおかげで段々と打ち解けることができた。
皆でゲームをしたり、パーティーをしたり、そんなことを通じて人と触れ合うことの楽しさを感覚で会得していった。
集団生活が終わって、日本に帰国してから病院に行く機会があったのだけど、少し自分の行動にに変化を感じた。
なんと、そこで自然と看護婦に世間話を持ちかける自分がいたのだ。
普通の人からすればなんてことないけど、コミュ障からするとこれはあり得ない。
事務的な会話で終われるなら可能な限りそうしようと思うのがコミュ障だ。
だから店員、係員などと必要以上に会話をすることはまずない。
自分の中で確実に何かが変化していた。
これは体験から人と話すのは楽しい、怖くないということを感覚で理解できたからだ。
ただし、その後孤独な生活に戻り、その感覚も忘れて今では元のコミュ障になってしまっている。
感覚も放っておいたら忘れてしまうみたい。
無職の不安は無職のブログを見ても消えない
このブログを見る人は少ない。
そしてわざわざこんなブログを見に来る層も大体想像できる。
無職、引きこもりなど、いろんな事情で人生に躓いている人だろう。
自分の状態が不安で、同じような状況にいる人を見て慰めにしようとしている場合もあるはず。
もしそうなら、あまり意味がないと思う。
自分も不安で同じ無職系のブログを読み漁っていいたことがあるけど、それだけでは何の解決にもならない。
自分の不安を払拭できるのは実践を通じた感覚による理解のみ。
いくら他者の状況を聞いても気休めにしかならない。
心に根ざした問題は他者に拠り所を求めても無意味。
自分で答えを見つけるしかない。