ヴィパーサナ瞑想合宿を終えたニートの所感
久しぶりに更新。
ヴィパーサナ瞑想の合宿を終えてその体験をブログを書こうと思っていたのだけど、細かく書き出すと膨大すぎて面倒になり、放置していた。
ただ、久々にブログを見るとアクセス数が平均30ぐらいから200近くに増えていて、それを見てまたブログを書き出そうかと思い立った。
詳細な内容についてはまた別の機会に書くかもしれないけど、とりあえず簡単なまとめを書いておく。
合宿に行った動機
一番は集中力をつけたかったから。
将来の不安、過去の後悔、そんな雑念に常に振り回され、今ここに全く集中できていない自分に嫌気がさしていた。
そこで、瞑想合宿を利用して改善しようとしたのがきっかけ。
瞑想コースの目的
苦悩を生み出す渇望と嫌悪に真正面から向き合い、それを観察することによって自分の心に刻まれた汚濁を浄化していくこと。
修行の内容
11泊12日の合宿で、10日間の間は毎日約10時間の瞑想をし、その間は最終日以外は一切他社との会話を禁じられる。
電子機器、読書、音楽、メモなど気を取られるようなことも一切禁止。
正直、会話を禁じられるのはコミュ障気味の自分にとってはとてもありがたい。
いちいち余計なことに気を配らなくて済んだ。
感想
自分と向き合う濃い時間を過ごし、とてもいい体験ができたので行ってよかったと思っている。
瞑想をしている最中は様々な感情や雑念が浮かんできた。
多幸感、絶望感、過去のトラウマ・黒歴史、未来への不安、次々に表れては消えてゆく。
毎日、内面がジェットコースターのように上下にぶれ、無常を味わった。
合宿8日目、瞑想の最中に足の激痛の限界を超えて明鏡止水のような境地になり、幸福感に包まれたことがある。
何故か分からないけど不安がなくなり、どうなっても自分は大丈夫だと心から確信できた。
翌日の朝までは幸福感が続いていたが、夕方頃になると急にそれも消えてしまう。
せっかく見えた光が消え、俺は意気消沈する。
執着が苦しみを生み出すというコースの教えを体感したのだ。
ただ、そんな戸惑いもまたいつの間にか消えていた。
良きも悪きも消えていく。
この無常の体得こそが今回の瞑想の核だったと思う。
どれだけ執着しても全てはいずれ終わりを迎える。
それは誰でも頭で分かっているけど、それだけでは執着を消せない。
親しい人や昔から知っている有名人がなくなった時、誰でもいずれは全て終わってしまう儚さを感じる。
それでも相変わらずお金や物に対する執着は存在する。
物事は頭で理解しているだけでは無意味で、自己の感覚でそれを学んでこそ初めて意味が出る。
仏教では経典が理論の部分で、瞑想が実践の部分を担っている。
今回の合宿は2000年以上前に釈迦が説いた理論を実践を通して学ぶ場所だった。
ただ、正直言って合宿に期待しすぎていた感じはする。
10日程度修行するだけでそこまで劇的な変化が訪れたわけではない。
俺は執着を捨て去り、過去の後悔や未来への不安とは無縁の状態を目指していた。
それは悟りに近い状態であり、よく考えればそんな簡単に到達できる境地なわけがない。
「10日間で誰でも悟れるコース!」なんてゆとり向け受験教科書みたいなことを期待した俺が間違いだった。
大きな効果を得るためには長い時間が必要で、運営の指示によれば毎日朝晩合わせて2時間の瞑想をやりなさいとのこと。
うん、そりゃ無理かもしれない。
変化したこと
修行を終えた直後はとても清々しい気持ちに満ち溢れていた。
菜食のみの抑えた食事をしていたのに、肉を食べたい気持ちも起こらない。
修行で禁欲状態だったのに、性処理をしたい気分にもならない。
気持ちの上下のブレも少なく、安定していた。
集中力がつき、読書ができる時間も伸びた。
ただ、これは修行を終えた直後のボーナス状態みたいなもので、長くは続かなかった。
なんやかんやあって修行の継続を怠り、今となってはその効果も大分減ってしまった。
一度修行したからその効果がずっと続くなんてことはない。
地道に努力を続ける、それは俺が最も苦手とすることだけど瞑想に関してはそれをやるだけの価値はあると確信している。
何とか瞑想を習慣化させ、自分のライフワークにしていきたい。