若い時にお金を使わないのがもったいない理由
幼少時代 、僕は関西から関東に引っ越した。
若干6歳ぐらいの時であり、新天地に移ることを想像し、車での道中はとてもワクワしていたのを覚えている。
それから20年以上経って、初めての海外であるアメリカへ行った。
見るものは全て新しいし、面白いといえば面白いけど、そこまで心が動かされることはなかった。
たかだか関西から関東の500km程を移動しただけでワクワクできた心はもはやなく、1万km以上を移動してもそこまで感動しなくなっていた。
同じようなことは他にもある。
小学生のころ、近所のゲームショップに通うのが趣味だった。
ガラクタ同然のファミコンソフトの販売コーナーが宝の山に見え、買ってきてそれらのショボいゲームを一生懸命やっていた。
そして今、実写に近づいた美しい映像、快適な操作性の最新ゲームが大量にあり、やろうと思えばどんなゲームでもプレイできる。
でも、どれをやってみても大して面白くなく、すぐに冷めてしまう。
これらの話から分かるのは経験は若い時ほど価値があるということ。
感覚には賞味期限がある
人間にはある時期にしか持てない感覚がある。
出会い、食事、旅行、恋愛、言語、いろんな経験があるけど、何をやるにしても若いときほど新鮮で、吸収率も良く、影響も大きい。
お金の価値は減っていく
経験の価値が若い時ほどあるのなら、年を取るごとに何かをする効用は減っていく。
世の中の多くの経験はお金で買えるので、その効用が減るということはお金の価値も実質減っていくことになる。
節制することは生き残る上で大事だけど、若い時にあまり節制しすぎて将来に備えるのも行き過ぎると疑問が湧いてくる。
一生懸命働いてリタイアした後に悠々自適に行う海外旅行は、学生の時に頑張って貯めたお金で行く貧乏海外旅行には感性の点では勝てない。
どうせお金を使うなら若い時のほうがいいってことですね。
ラストエリクサー病に注意
ゲームのFFシリーズにはラストエリクサーという味方全員のHPとMPを回復させてくれる貴重なアイテムがある。
貴重なアイテムなのでいざという時のために取っておき、結局ラスボスの時までに使い切れないぐらい余ってしまい、エンディングを迎えることがよくある。
僕は勝手にこれをラストエリクサー病と呼んでいる。
多くの人が人生においてもラストエリクサー病にかかっている。
現代では本当はお金の心配なんてそんなにする必要がない。
生き残る賃金を得るための仕事は常にあるし、仕事もできなかったら社会福祉もある。
本当はそんなに不安になる必要なんてないのに、余命が長くない年寄りまでお金に執着してしまう。
どうせあと数十年で強制的にエンディングを迎え、お金の所有権もなくなる。
しかもお金で得られる経験の価値も下がっていく。
ならもっと気にせずどんどんお金をつかってもいいはず。
しかしそれは頭で分かっていても、なかなか実行できないのが難しいところ。
自分自身もお金に対する執着はかなりあり、それとどう向き合っていくかは常に考えている。
この執着から解き放たれた時、もっと人生は楽になるんだろうと思う。
怠け者のニートでもよくする簡単な料理トップ5
僕は自他共に認める怠け者です。なので、前までは自炊はあまりせずに大体弁当や半額の惣菜で毎日を切り抜けていました。でも、自炊を始めてみると、量も味もこちらのほうが満足感があることに気付き、最近は結構自炊をします。
当然怠け者の自炊ですから、凝った料理などしません。材料が普遍的で、数を揃える必要もなく、調理法もシンプルなことが絶対です。今日はそんな料理?を紹介します。
豚キムチ丼
豚肉、キムチ、醤油、みりんがあれば作れます。
醤油とみりんに肉をつけ、フライパンで炒めてキムチを加えてご飯に乗せるだけ。
カレー
いろんな工夫法が発明されているカレーですけど、余計なことをしなくても普通に美味しく食べられます。
玉ねぎと牛肉or豚肉を切って炒めて後は水とルーを入れて煮るだけで充分です。
ジャガイモは炭水化物のライスがあるので不要です。
焼きそば
キャベツ、豚肉、玉ねぎを炒めて、麺を加えてソースに絡めるだけ。
鍋
好きな野菜と肉をぶった切って、鍋で煮てポン酢につけるだけ。
納豆卵かけご飯
ご飯に納豆と卵を混ぜるだけ。
安い割に味と栄養価が高く、タンパク質の補給に重宝する。
自炊なんて適当でいい
自炊と言ってもピンからキリまでありますが、別に適当にやっても立派な自炊です。
サイトとかに乗ってある材料も勝手に省いても大丈夫です。肉と野菜をぶった切って、煮るなり焼くなりして醤油や塩などで味付けするだけで充分食べられるわけです。
手間をかからなければコスト、味、量などで明らかに自炊のほうが勝るので断然お得です。自炊をするようになってからは、もともと敬遠していた外食に更に行かなくなり、今となっては安いチェーンの牛丼屋や日高屋ですら行くのを躊躇うようになりました。
一生使える ニート流食費を節約する考え方
ニートを続けていくには生活コストを下げることが重要です。
その上で最も基礎となるのは食費です。
僕は自分なりの節約の考え方を実践し、毎月2~3万ぐらいに収めてるのでそれについて書きます。
食べなくても後悔しない
食の誘惑に逆らうことは難しく、食べたくなったらついいろいろ買ってしまうのが人間だと思います。
もし、これを我慢したらどうなるのでしょう。
例えば、今凄くラーメンを食べに行きたくなったけど、家で作った安い食事で我慢したとします。
翌朝に目覚めた時、そのことが尾を引きずるでしょうか?
別に何てことはありません。
空腹状態であればきついですが、普通にご飯を食べていればラーメンを食べなかったことを後悔することはありません。
ラーメンなんていつでも食べられるものだからです。
これがその時その場所でしか食べられないようなものであれば、後悔は残るかもしれません。
でも、いつでも食べられるものを逃したところで、それはどうということはないのです。
食べた効用は継続しない
仮にラーメンを食べに行った場合のことを考えます。
大好きなラーメンを完食し、満足したとします。
翌朝、目覚めた時にその
もしかしたら若干残っているかもしれませんが、それは翌々日になればほぼ完全に消えているでしょう。
つまり、味に関する食べ物の効用なんてものはその場限りのものであって、継続はしません。
時間が経てばラーメンを食べようが食べまいが満足度は同じこと、というのは重要なポイントです。
食事は我慢するが勝ち
時間が経てば効用が変わらないのなら、食事はその時に我慢したもの勝ちであるということです。
どうしても食べたいものなら食べちゃうのは全然ありです。
でも、ある食べ物を買うか迷ったときに今さえ我慢してしまえばいいだけと思えば、余計なものは買わなくなります。
迷って食べ物を買ったけど、いざ食べてみたら別に買わなくても良かったということは良くあると思います。
そういった無駄をなくせば、その積み重ねが月に万単位で変わってきます。
僕みたいな安定した収入のないニートはこういった細かいことを積み重ね、将来に備えることが重要です。
パチンコで考える幸福のメカニズム
相変わらずパチンコで生活をしのいでいるワナリです。
今月はパチンコを6回終日打ちました。
その収支を順番に書きます
1 +61500円
2 +104000円
3 +150000円
4 -86000円
5 -55000円
6 -95000円
このように、最初にいいスタートを切ったものの急に失速して結局は+8万円程度になってしまいました。
別に負けてはいないんですが、不満が残ります。
収支で言えば+になっているのだから、そこまで焦る必要はないんですが、上げて落とされると痛みを感じるのです。
月の初めのプラスマイナス0だった時よりもいい状態のはずなのに、その時よりも満足度は遥かに低い。
これを参照点依存といいます。
ある状態が基準となり、それより上か下かで幸福を測ってしまうという心理的現象です。
この例で言えば、3回目の時点で約+31万円になっていたわけですが、この31万円勝っている状態が基準となってしまい、例え8万円勝っている状態だとしても気分的には-23万円になっているということです。
現状を有り難いと思わなければきりがない
僕は以前に食費が月1万円の最底辺の生活をしていましたが、今はその時に比べると大分ましになりました。
ただ、最初は弁当を普通に買えるだけで満足していましたが、今はそれに対して特に有り難みを感じません。
人間はどこまで行っても慣れてしまうので、現状が当たり前になってしまうんですね。
さっきのパチンコの例をもっと大きくしてみます。
仮に今日僕がFXで1000万円の利益を出したけど、月末までに900万円の損失を出して、結局100万円の利益に落ち着いたとします。
この場合、月初よりも資産が100万円も増えているのにも関わらず、月初より不満を抱えてしまうわけです。
1000万勝っていた自分が基準化されちゃうからですね。
こう考えていくと、人間の幸せというのは実態よりも、自分の心理状態に左右されてしまうのが分かります。
ただ、理屈が分かっても実際にこれに対処するのはなかなか難しい。
不自由を感じるのも大事
僕は甘いものが大好きで週に2、3回甘い物を食べます
某医療ボランティアに参加した時、2週間ほど甘いものを食べられない時期がありました。
辛かったですが、その後クッキーを食べた時、自然と笑みがこぼれてしまいました。
たかがクッキーでとても喜びを感じてしまったのです。
幸福を実感するには不自由が必要なわけですね。
よく途上国などに行けば日本の有り難さが分かるといいますが、これもそうですね。
安全、清潔、便利、海外と比較すれば日本の良さをとても実感できます。
考えてみれば今のニート生活というのも大変有り難い状況です。
普通に食事はできるし、少なくとも今後数年は死ぬ心配はありません。
仕事のことは考えず、ぐっすり眠れます。
好きな本を読み、歴史のように直接生活のに役に立たないことにも関心を持てる。
これは昔でいう貴族のような生活ですね。
今の生活に不満ばかりで、あまり幸福を感じていない僕ですが、もしかしたら既に僕は人生に勝っていたのかもしれません。
誰かに勝つという相対的な意味ではなく、既に尊いものを持っているという意味でです。
仕事を辞めた直後は、朝ぐっすり眠れるだけで物凄く幸せを感じたものですが、今はそれが当たり前となっています。
毎日が休日では休日の有り難みもなくなってしまいます。
ニートの私にとって今に感謝するために味わう必要がある不自由とは、労働なんでしょう。
ただ、労働生活もニート生活も今に慣れてしまうので、しばらく働いて、しばらくニートする、という具合に交互に生活を行うぐらいが丁度いいのかもしれません。
子供部屋おじさんを擁護してみる
最近「子供部屋おじさん」というキーワードをネットでよく見かけます。
これはいい年して実家暮らしをしている人を揶揄する言葉。
誰かが意図的に流行らしているのか、単に何か馬鹿にする対象がほしいのかは分かりませんが、思うところがあったので記事を書いてみることにしました。
これに関しては以前の記事で言及したことがありますが、改めて考えてみます。
ちなみに今の自分は実家暮らしではありません。
世界的にも増えている子供部屋おじさん
成人しても実家暮らしをする人が増えているのは日本だけじゃないです。
上記はアメリカのニュースですが、これをまとめると
・1950年代には18~34歳で実家ぐらしをしているのは20%だったのに今では30%以上に上がっている。
・理由として最も大きいのは未婚の人が増えたから。家族を持てば普通はみんな実家を出ていく。
・実家暮らしは学歴の面で見ると大卒未満の人、人種で見るとヒスパニック、インディアン、アフリカ系アメリカ人により多く見られる。
日本と大体似たような事情ですね。
未婚の人が増えてるし、しかも貧困層に限って結婚できない。
大企業なら家賃補助や独身寮もあるし、必然的に実家暮らしは学歴と収入が低い人が多くなる。
実家暮らしは悪いことではない
まず、実家暮らしは悪いことじゃないです。
単なる生活の一形態であってそれ自体は一人暮らしに比べて良いことでも悪いことでもありません。
人にはそれぞれの事情があるわけで、それを無視して語ることにそもそも無理があるわけです。
実家暮らしにも色々ある
一口に実家暮らしと言ってもその内実は人によってかなり異なります。
・炊事、洗濯、光熱費などを全てを親に任せっきりで、子供時代と同じように暮らす人
・ただ部屋を間借りしているだけで、親の負担にはならず実質的には独立している人
・介護のために同居している人
・農業など、家業を親と一緒にしている人
そりゃもういろいろです。
人それぞれの事情があって選択していることなのですから、関係ない人が口を挟む事ではないと思います。
子供時代と同じように親に甘えるのはどうかと思いますが、それでも所詮は他人の家の事情なんで僕からすればどうでもいいです。
メリットがないなら一人暮らしをする必要はない
わざわざ家賃と光熱費を払って一人暮らしをするなら、それなりのメリットがなくてはなりません。
異性を連れ込めるとか、職場から近くなるとか、そういうメリットがあるなら一人暮らしも選択肢になります。
でも、そうじゃない人もいるわけですよね。
このメリットとデメリットは各自によって違うのに、どうしてそれを無視して一人暮らしをするべきという概念を押し付ける人がいるのでしょう。
僕はこういう自分の考えを押し付ける人は嫌いです。
職場と実家が近い、異性関係もご無沙汰、プライベートを確保できる空間があるなら一人暮らしをする必要があるとは限りません。
むしろ実家暮らしをするべき状況だってあり得ます。
ニートが一人暮らしして良かったこと
実家ぐらしでも別にいいという話をしてきましたけど、逆に実家にいなくて良かったと思うこともあります。
ニートの僕だからこそ感じる実家から出るメリットを書いてみます。
金を稼ぐ必要に迫られる
実家暮らしじゃないと、生きてるだけで毎月金が一定以上消えていきます。
当然生きるためにはお金を得なければなりません。
どうしても就職したくなかった僕は、なるべく怠けて収入を得る方法を模索し、今では貧しくてもどうにか生活できる程度の収入はあります。
それはとても不安定でちっぽけなものだし、今後のことは全く分かりませんが、それでも自分でなんとかしようという意識を持っていろいろ調べてやってみたのは、実家にいなかったのが大きいです。
実家にいたら何もしてなかったであろうことを考えると、結果的に払う家賃分以上のメリットがありました。
最低限のタスクが強制的に発生する
親元で引きこもっていた経験があるのでよく分かりますが、実家暮らしのニートや引きこもりは本当に何もしないんですよね。
ただネット見て、ゲームして、食べて、寝るだけみたいな。
風呂すら入るのが面倒になり、生きた屍状態です。
こういう状態は著しく行動力が下がり、脳も退化していきます。
ところが親元にいないと最低限やらなければならないことが発生します。
炊事、洗濯、ゴミ出しなど、当たり前の作業をすることが結構大事なんです。
ご飯のメニューを考えて作るのは頭使うし、買い物に行かないといけないし、外に出るならちゃんとお風呂に入って、服を買って、身なりを最低限整えないといけません。
こういう日常の作業すらやらなくなると、行動力がどんどんなくなって本当に何もできなくなります。
精神的な開放
たまに親に会うと早く働けと言われますが、僕は全く相手にしていません。
別に働いていなくても親に負担をかけていないので関係がないからです。
これが実家にいたら、文句を言われても返す言葉もありません。
上記のことを考えると、無職や引きこもりの人は一人暮らしをするのも一つの手だと思います。
実家暮らしも一人暮らしも一長一短
月並みな結論ですが、実家暮らしと一人暮らし、どちらがいいか一般論として語ることはできません。
どちらかのスタイルを選択する上でキーとなるのは利便性とパフォーマンスの2つだと思います。
実家暮らしだと生活費が安くなるので利便性は高いですけど、それに安堵することによって本来発揮できるパフォーマンスが発揮できないなら、実は損をしているこということもあり得ます。
いずれにしても、皆がそれぞれの置かれている状況の中で生活スタイルを選択してるわけですから、外野があれこれ言うことではないですね。
固定概念や世間の物差しなんて無視して、どうするのが一番自分にとっていいのかを考えていきたいものです。
読書なんか無理してしなくてええんやで
池上彰や佐藤優などの影響から、教養を身につけようという意識が高まったと思う。
一見仕事に直接関係なさそうな歴史、哲学、数学などを勉強する人が増えたんじゃないだろうか。
そういう僕も例に漏れず、金にならなそうな本をちょくちょく読んでいる。
ただ、最近はあまり意味がないと思えてきた。
面白くない小難しい本を無理して読んでも、読んだ直後ですら内容はあまり頭に残らない。
何度か読み返し、頭のなかで反復作業をして初めて本は血肉になる。
そこまで興味がないもの、必要でもない本を何度も読み返すのは難しい。
じゃあ面白いと思える本を読めばいいのだけど、そう思えることは少ない。
この面白いと思える範囲が広い人ほど読書の才能があり、狭いほど才能がない。
どうやら僕には知的好奇心が欠けていて、読書をこなす能力がないようだ。
知的好奇心があるから読書に意味が出てくるのであって、それがない人は読書をしてもザルに水を流すようなもの。
読書は嫌ならしなくていいのだ。
もちろん面白くなくても、仕事や生活に必要な知識なら別のモチベーションが働くので、そういう読書は効果はある。
でも、義務感やファッション感覚で読書しても得られるものは少ない。
僕はコンプレックスが強いので賢いと思われたくて、ついつい小難しい本を手に取っていた。
もうそれはやめようと思う。
好きな漫画を読んでるときのように、早く次のページをめくりたくなるような状態じゃないと駄目なのだ。
ページを進めることにノルマを感じるような読書はもうしない。
韓国の外見重視社会に見る生きづらさ
韓国系の航空機に乗り、スチュワーデスを見ていると、明らかに見た目で選別されていることがすぐに分かる。
顔は好みがあるので美人かどうかは置いておいて、間違いなく平均よりは上。
背が高く、足が長い、かっこいい体系のお姉さんばかりだ。
もともとスチュワーデス自体が容姿が悪い人は採用されにくいと思うけど、韓国の場合はあからさまなのだ。
韓国系の航空機を使った人にこのことを話してみると、皆同意する。
テレビをつけるとアイドルグループがテレビで歌を披露していた。
皆、整った顔であることはもちろんのこと、スタイルも抜群。
日本のアイドルグループに比べると、成熟、統一された美しさだ。
韓国にいると、美に対する意識の高さを日常の中で感じることが多い。
もちろん容姿が重要なのは世界共通。
恋愛だけじゃなく、就職とか、人付き合いとか、いろんな部分で容姿が関わってくる。
ただ、韓国の場合は容姿が重視される割合が他国よりも高い。
整形を受けた人口比率が世界一なのも納得。
容姿が重視されるのは結構だと思うけど、同時に生きづらい社会だと思う。
容姿が良い人が陽の目を見るということは、容姿が悪い人はその分冷や飯を食らうということ。
アイドルやスチュワーデスなど、表に立つ人間には美人が多いけど、街中で歩いている人はそうじゃない。
容姿が重視される社会で、容姿が良くないのは生きづらい。
顔や体形は生まれた環境で決まってしまう割合が多いので、変えようと思って変えられるものでもない。
学生時代、好意を抱いていた女の子と話をした時、彼氏は身長が180cm以上ないと嫌なんて言われたことがある。
俺の身長は171~2という日本人の平均であり、そんなこと言われてもどうしよもないのだ。
おかげでアプローチを考える必要すらなかった。
まあ、そんな勇気もなかったけど。
しかし、僕が相手に好意を抱いた理由もまた見た目なので、見た目を重視する相手に文句は言えない。
本当は見た目を重視しない社会になれば一番楽なんだけど、それは不可能。
華々しい美しさの裏側に、いろいろな悲しみを想像する、そんなある日のことだった。